風雲ブログ記事

  • 令和7年の新しい年が始まりました。

    昨年は、10月に行われた衆議院議員選挙において、私自身は議席を得ることが出来ずに、生活自体が大きく変化した年でした。一方で、自由民主党三重県第三選挙区支部長に再任(令和6年12月19日付)戴きましたので、今年はどんな一年になるのか大変楽しみでもあります。

    自由民主党としては、「不記載問題」を抱えながらの衆院選だったことから、防戦一方の状態を余儀なくされたことは、紛れもない実感として私の中に存在しています(その実感については、まだ語る時期ではないと思っています)。私自身は「不記載問題」に関わっていないものの、そんなことは関係無く、「自由民主党の候補者」=「不記載問題」の構図が、大きな流れとして存在していました。その流れに抗うことは、ほとんど無意味に感じられたものの、自由民主党の公認候補者としての「お詫び」はしましたが、特別な否定も肯定も説明も釈明もしませんでした。

    当然ながら、選挙期間中は、立ち止まって何かを考える時間的及び精神的余裕はありませんので、私自身が問題を整理することはありませんでしたが、漠然とジャン・ジャック・ルソーが『告白』の冒頭で取り上げている「壊れた櫛事件」を想起していました。

    選挙も終わり、時間的及び精神的余裕が出来た年末年始に改めて、『告白』の「壊れた櫛事件」とジャン・スタロバンスキーの『ルソー 透明と障害』の日本語訳を手に取り、読み返してみました。結論的に申し上げると、「不記載問題」と「壊れた櫛事件」の構造は、本質的には一致しないものの、ある面で共通している部分があり、私自身の中では、問題の整理が出来ました。スタロバンスキーの言葉を借りれば、「『やさしい』、『きわめて道理をわきまえた』そして『正しい厳格さ』をそなえた人間」(pp.13)が、「思い違い」(pp.14)により、事態を断罪する構図でした。もちろん、自由民主党所属の国会議員の所業に連帯責任を負うことから、私自身がその連帯責任から逃避する訳にはいかないことは、重々承知の上ではありますが、他方で、問題の構造を理解し、私個人が得心することに大いに役に立ちました。

     

     ある日、わたしは台所につづいた部屋で、ひとり学課を勉強してた。それよりさきに、女中がランベルシエ嬢の櫛を壁のくぼみのところに乾かしておいた。女中が取りにもどってくると、その櫛の一つが片側すっかり歯が折れていた。誰がいためたのだろう。わたしのほかに部屋に入ったものはなかった。わたしが尋問された。わたしは櫛なんかさわらないという。ランベルシエ兄妹は二人して、わたしをいさめ、白状をうながし、おどかした。わたしは頑強だった。わたしがこんなに図々しくうそをつくのは見初めだとは思ったものの、みんなはわたしのしわざと信じきっているから、いくら抗弁してもきいてくれない。事は重大化した。それも当然だ。いじわる、うそ、強情、どれもみな一様に罰せられていいことだと考えられた。が、この時はもう折檻役はランベルシエ嬢ではなかった。手紙でベルナール叔父が呼ばれ、やってきた。

    (中略)

     いくら責めてみてもわたしを白状させられなかった。幾度か折檻はくりかえされ、この上ないひどい目にあったけれど、びくともしない。わたしは死んでもこらえる気だった。そして死ぬ覚悟だった。ついに暴力そのものも子供の悪魔のような強情っぱりに負けざるをえなかった。わたしの不動の態度をみなはそういうふうに形容をしたのだった。この試錬でさんざんな目にあったが、しかしわたしは勝った。

    『告白』(pp.22-23)

     

    幼きルソーがやってもいない咎を責められたことと、事実として行われた「不記載問題」は本質的に異なりますが、状況証拠を突破口として、物事を判断すること、しかもその判断している人々が、体勢を占め、その判断は「正しい」と確信していることが、共通しています。さらに、その罪ではなく、その状況をルソーは黙って受け入れざるを得ない立場も酷似しています。

    私は、有権者の判断は甘んじて受け入れなければならないし、それが政治家の「お仕事」の根幹だと思っています。それ故、今回の「不記載問題」に起因する全ての結果に、異を唱える意図はありません。これらを包含して政治は動いていくことだけは、記憶しておかなければなりません。